冷凍庫

誰かにこの話を聞いてほしい、誰かと心のいちばんまんなかの話を、わたしの神さまの話を聞いてほしい、心のまんなかに座ってる神さま、わたしのこと、わたしのすべてのことをほんの少しの言葉で共有したい。これは宗教のはじまりかもしれない、だからすこし怖い わたしと同じ気持ちのはずの遠い昔のわたしのことを考えずにいられない 遠い昔のわたしのまなざしがわたしへ届いている わたしを突き刺している 遠い昔のわたしの風がわたしを知ってる わたしを見つけてる 遠い昔のわたしの反射が分かる わたしを探してた ずっとずっと前から

飾り

ますます生きるのが難しくなっている。縄文時代に生まれたかったという気持ちは日に日に強くなっている。神さまのようなものを見つけるとすぐに泣いてしまう。わたしはもう自分の気持ちの中に消えてしまうのではないかと思っている。わたしのこころがわたしの神さまで、そのお告げがあるのを祈りながら這いつくばりながら顔や服を泥だらけにしながら大声で泣きながらわめきながら叫びながらどんどん壊れながら待ってる すべてが救われて何もかもがよくなっていくのを待ってる でもそれってもう 手遅れってことなのかも

お墓

胸がざわざわして、苦しくて、背中や肩がこわばっていて眠れない。確かに泣き出しそうな気持ちなのに、決定的な悲しみがないので泣くことができない。わたしは会話の仕方を忘れてしまった。学校が終わって、圧倒的にストレスがなくなったはずなのに、わたしはたくさんの気持ちに押しつぶされそうになっている。たくさんのわたしの気持ち。自分の大切な気持ちのことを考えてからだや脳に定着させてやるような時間が足りなすぎる。それをずっと忙しさや充実感にかまけて放置していたせいで、いまわたしの大切な気持ちは胸を溢れ出して喉のすぐそばや肋骨や背中にまで広がっていて苦しくてたまらない。たくさんの気持ちが毎日わたしに沸き起こるのにそれをわたしにすることができていない、そのやり方をわたしは知っているので、ただ時間が足りなすぎる。わたしの大切な気持ちはぜんぶわたしが知っていなくてはいけないのにこんなのはぜったいにだめだ。わたしはもうわたしのこころにぴったりのことしか言いたくない。わたし以外のことは何ひとつ考えたくない。わたしはいつも自分で自分のための神さまを作って自分でそれを信仰することで生きる理由をなんとかみつけてきたのだから、神さまが足りなくなっているのだから仕方ない。ねんどをやっていたときは言葉や脳がなくても神さまが生まれてくれたから、こんなに苦しくなることなんてなかったのに、今はねんどもやっていないからほんとうにくるしい。こころが大切な気持ちでいっぱいで苦しくて焦っていて終わらなくてつらい。宿題が終わらないまま塾に行く子供と同じわたしは心がいっぱいでだめになってしまいそうでつらいんだ。

あんたのことだよ

呪いのように会えなくなってしまった愛しい女の子、もうお互い女の子なんて歳じゃなくなっちゃったけど、もう一度会えるなら初めて会ったときみたいに上野で何か展覧会を見たい、何でもいい、それからふたりでラーメンでも食べようよ

祈りしかない

穏やかで安定した精神の中に深く深く潜っていくだけで年をとれたらほんとうによかった。なんでもなくなることはこわくない。そのことはただ肉親にいい顔をしたいだけだから。お金なんて少しだけあればいい。それ以上の何かを求めていない。でも縄文時代に生まれていたら祈るだけでよかった、あとは果物を食べたり、動物をしめたりする、きれいな石を探したりするだけでよかった。魚でも葉っぱでもない大きな影に顔を隠して。わたしはまちがえた。ほんとうはずっとずっと前に、化石になってなくちゃいけなかったんだ。誰にも怒られたくない。誰からも、わたしのたいせつな気持ちや、わたしのたいせつな人を傷付けられたくない。もう22になるのにこんなにもこわい。星にも風にもなれなかった

いつだって明日の朝起きて少しでもよくなっているためだったら今晩何だってしたいって思ってる

ぬいぐるみのような気持ちをぜんぶのものに求めている。ぬいぐるみは呪術に近いということには気づいている。それでもその愛らしいすがたのおかげで誰にも否定されたりしない。わたしは占いや手相や背後霊やオーラみたいなものを警戒していて、それはなぜだろうと考えていたけど、たぶんわたしが決めることができないからだ。わたしはわたしのことをずっと、ほんとうにずっと考えてきたから、わたしのことを他人に決められることにすごく不信感を持ってしまう。だからあなたはあしたこうなりますとか、あなたは先祖の霊のおかげで助かったとか、そういうことを言われると落ち込んでしまうのだと思う。ところでぬいぐるみのような気持ちっていうのは、例えばかわいいセーターを見つけて、それを買えないことがわかっているのに試着して、試着室でカーテンをぼんやり眺めながら少しの間だけセーターを着たままでいるとか、そういうこと。わたしは土のかたまりを触るときも、いつもぬいぐるみを探している。柔らかいつるつるした毛の生えた気持ちが欲しくて、それを見つけると涙が出てしまう。星やハートのマークを探している。

いま実家に来ていて、とてもニュートラルな気分で日記を書いている。激しくふくらんだ感情を文章にするのは比較的易しい。自分から飛び出たところを見て書けばいいから、いつもそういうふうにやってきたけど、最近はそんな大きな感情の中にあるときの自分にあまり興味が持てなくなってきた。こういうなんでもないときに何かを書くのは久しぶりかもしれない。ぬいぐるみのような気持ちのことははやめに書いて残しておきたいと思っていた。土に触るようになってからからだと感情のバランスがとてもいい。あたまに何もないときは土を触っていると勝手に手がわたしと土をよくしてくれる。土のぬいぐるみは神さまのように出来上がることが多い。わたしはそれを見て泣いたりして、そういうときに感情のほんのうわずみのような、つやっとしたシンプルな風のような、そういうものがすべっていくときがあり、それをわたしは「かなしいの星」さんと呼ぶことにした。そのかなしいの星さんがしばらくみえないときでも、土の神さまは目に見える形でわたしのところにいるので心強い。わたしはだんだん強くなってきていると思う。歌をつくることもできた。まだひとつだけだけど、お風呂でひとりのときに練習している。恋人に年賀状を書く。恋人にだけ書く。ほんとうはおばあちゃんが死んでしまったから書いてはいけないけど、新宿のアパートでひとりで年を越す恋人に年賀状を書いたら、すこしだけいい気がするから。明日は雪らしい。