あっちの水は甘い

愛知県のふとんにいる
さいきんは何か日記を書いても、これは作品になるかもと思ってブログにアップしなかったりして、あとで見て、そういうものはわたしの見栄だとかこれはよくできたみたいな奢りが染み付いてしまっていて、結局消してしまうので、全然いみない すぐにブログにしてしまえば他人事みたいになってよかったのに なんでも気持ちは生まれたときに消化しないとだめだ すぐうそになる

わたしがものを書く ということが どういうことなのか ここのところずっと考えていたんだと思う
それは例えばアイロンをかけて シャツのしわを伸ばすような ぴたぴたとさわって 薄い濡れた紙のようななにかを 壁に貼っていくような いまの気持ちをできるだけ壊れないように、すこしずつすこしずつ押していく そういうしぐさが一番近いと感じた
しわ ということもよく考える わたしは皮膚がわるいので 皮膚 ということもよく考える 何かを深く思おうとすると しぶい紅茶を飲んだあとのように 腰の辺りがむずがゆくなって うまくものを考えられない
頭でものを考えることが、むかしは得意で それがずっと嫌でもあったんだけど いまはからだでしかものを考えられなくなってきたのかもしれない
頭でばかりものを考えているとからだのほうが置いてきぼりになってむずむずするのかもしれない

わたしはぴたぴた濡れた紙をやぶれないようにタイルに貼り付けていくしぐさを思い出す、それがもうすでに、書くということで 書くということがいつか文字を必要としなくなるときが くるのかな
そうしたらわたしはもう日本語もみんな忘れて くちぶえを吹いておどってみたいと思います
わたしのからだ元気かな